創造する光
 

 前章;霊的進化論の続編です。

 私たちが肉眼で見ることのできる光は可視光線という光(電磁波)のなかの限られた一部分です。触れた感覚で認識できるのも、自然の様々な力の中の、電位反応のわずかな範囲のことにすぎません。

 こうした電磁波は一例ですが、私たちは普段眼に見えない光の中を生きています。

 生まれたときからありつつけているので感じていないだけなのですが、太陽の重力によっても生かされていますし、銀河系の重力の中にも育まれています。それがなくては生きられない多くのものに囲まれて私たちは生かされているのです。

 大気のなかに含まれている水蒸気は目には見えませんが、前線など温度差があるところで冷やされて雲になります。

 光エネルギー(電磁波)も、ある原因をもつことによって固形化します。これが物質です。
 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」などにも、ひかりがかたちをとる表現がありましたが、これはほんとうのことです。

 光は自然を生み出す精神の光であり、生み出された質に運動を与える能動者でもあります。
 精神と自然はもとは同一のものであり、根源には光があるのです。

 目に見える光のみしかないとおもうならそれは努力の入らない考え方です。しかし目に見えない光によって、人は過去キリスト者になったり、仏道を求めるように導かれる人もいます。太陽の光も、目に見える自然を刻一刻と変えてゆきますが、仏陀やイエスなど宗教家から発された目に見えない光によっても、人は劇的にかわり美しい生涯を送ります。こうした満ちあふれる光も心を開くことによって、その暖かさを感じることができます。
 信仰がその心をひらく行為なのです。信仰によって心照らされた人たちが、その光を伝えようとして歴史を創ってきたのです。そうでもなければ、今でも日本のどんな小さな町の地図でも開けばお寺が必ずのっていますが、釈迦の当時何の関係もなかった日本にそれだけのお寺が存在する説明がつかないのです。

 人間の歴史とはそういうものです。政治権力の利用物としてしか宗教がみれない歴史教育では、歴史を理解させることはないと断言できます。

 地球が2600回太陽の周りを回転する間に、偶然に日本に何十万のお寺が建つようなことは決してありません。聖徳太子が仏教を選択したのも、明確な意志を持って選んだことです。

 
 生き物達は信仰を持ってはいないでしょうが、またその光の中を生きているものたちです。創造する目に見えない光も、彼らを包んで見守っているのです。

 コオイムシが卵を背中で守っている姿も、地球の回転とともに偶然にとった習性でもなく、盲目の選択の結果でもないのです。歴史もまた目に見えない光によって導かれ、より美をもとめ創造されているのです。
 

 進化因を目に見えない光としているだけでは、全ての原因を突然変異と自然選択の題目を唱えてすましていることと同じレベルなのですが、ダーウィンによって生物進化の事実が明らかにされて以来、人類がほんとうの進化論を科学する出発点にやっとたてたばかりなのですから仕方のないことかもしれません。
 あるいは、現代物理学で近いところは解明されているのかも知れませんが、それを生物学まで降ろしてくる才能が少ないのかも知れません。
 
 この形而上学的な進化論は、現代生物学の創発や自律的進化を包括し矛盾することはありません。また分子生物学の発展の妨げになることなく、遺伝情報の知見に対して構造的な解釈を与えられる哲学的視点を与えるでしょう。
 

 現象とデータのみを見て科学が進歩したことはありません。壮大な仮説が必要なのです。そのあとにそれを証明しようとする研究者が輩出されるのです。

 どうして紙は遅く落ち、鉄球は速く落ちるのかと現象を見て考えていては、産業革命もおきず人類は宇宙へもいけなかったでしょう。全ては等速度で落下するという概念こそ、魔女狩りも残る中世を終わらせたのです。その結果、空気の抵抗や、真空、摩擦ということが科学の対象にされたのです。
 化学者も、熱がなぜ高温物質から冷たいものにしか移らないのかを考えていたら進歩がなかった。クラウジウスがそれを熱の本性としたときに熱力学が発展したのです。

 宇宙も未来に向かって落下しとどまるものはありません。進化・変化は前提です。唯物的思考でつじつまを合わせた進化論に関わりなく生物は進化してゆきます。遺伝子も細胞も個体も、物質的なものは日々変化してゆきます。光がそそぎ込み流れてゆきます。その中にあって、変わらないものは何か、「種」とはなにか、それはまた何故か、という問いかけが建設的なのです。
 

2001.12