自然との和解
 

 全米同時テロ事件以来報道等をみて、自然との和解の前に、人類同士の和解が必要とも思います。
 宗教を背後に持った文明同士の問題が表面化したという見方ができますが、日本でもだから宗教は恐いという論調にならずに、中教審などが「宗教の相互理解が大切で、教育に宗教を含めることが大切だ」という流れになったことは良いことだと思います。

 唯物論から絶対に愛は生まれません。20世紀の大量殺戮は二度の世界大戦ではなく、そこでの死者はるかに上回る人数の粛正が共産主義圏でおきたということです。唯物論・人間機械論こそ最悪のアヘンでありました。

 宗教がなければ、宗教戦争以前に隣人との争いで人類は滅亡していたでしょう。

 人類が相互に理解しあえるには愛以外にないと思います。

 それは、環境問題がおおきな論点となっている21世紀において、疎外された自然にたいしても同じことと思います。

 愛をもって生き物達を見たとき、また私たちが愛の中に生かされていたことを発見します。

 昨日の大学のゼミでは、後輩がマラリアを媒介する蚊に遺伝子組み替え技術を使い、蚊の体内でマラリア原虫を死滅させる防除法を発表していました。こうした技術は、生物機械論の思想の下どんどん進歩していいとおもいますし、その恩恵は大きいものと思います。
 しかし、生物が機械であるわけではないのです。そういった見方が、有効な場合もあります、という態度が必要なのだと思います。

 そう繰り返して来ましたが本心を言えば、私は私たち人類をも支えてくれているけなげな生き物達がいとおしくて、もっとこうした生き物達の心を知って欲しい、心開いて欲しいとおもうばかりです。

 こうした心ある生き物達が、一生懸命やっぱり子育てしたり、自分の家を創ったり、果実に養分を貯めたりして頑張っている姿を見てあげて欲しいと思うのです。生命とはもっと優しい精神の光を帯びています。本当の精神はもっともっと光輝いているのですが、身体や本能や遺伝子に縛られて行動しています。


 といって、極端な環境主義者のように、地球は生物の星で人間はあとから来た侵略者だとか、環境を守るために人間同士が争うようなことは、自然の何も理解していないのと同じです。人間はこれらの生物に愛を与えてゆけるからこそ、万物の霊長であってその生物からの優位性が許されているのです。
 環境保全を材料にして人間同士があらそうのであるならば、生き物達はその身体や酸素を彼らに提供することを残念に思うでしょう。
 
 こうした人間と生き物たちの、使命の違いとしての隔たりも知る必要があります。「自然に還れ!」とはいいません。ただ私たちとは何か、神とは何か、自然とは何か、全てを知りたいと思う中に、また大いなる人類の飛躍のステージが待っているように思います。

 ひとつにはなれないけれど、人間と生き物の距離を知って、その距離も含めて愛してゆけるなら、「いつの日かdistanceも抱きしめられるようになれるよ」(by hikki)と思います。

 愛と感謝をもって生きてゆきましょう。自然に対するささやかな優しいまなざしに、きっと同じく優しい精神が応えてくれることでしょう。

2001.11