生物の哲学 
 

 現代生物学の依って立つフィールドは、縦・横・高さのデカルト座標に、1日24時間の時間を流した時空間であり、この中に全ての世界を押し込め説明しています。おそらく学校で習う生物学でここを超越した分野はないでしょう(『ゾウの時間・ネズミの時間』(本川達雄;著)では、動物毎に生きている時間は違うのではないかということがいわれていますが)。

 現代物理学ではより高次元から世界を解説していますし、医学でも最近は学会でもを扱う分野が登場しています。

 生物学ではまだ目的論を否定した生物機械論を脱却していません。たぶん、生物機械論が楽なのでしょう。そこから一歩出ると思考停止になっています。

 その極みはダーウィニズムです。

 ダーウィニズムを一歩出ると思考停止になる様は、生物は進化しないとするファンダメンタリスト;原理主義者と全く同質のものです。
 
 生物機械論は便利で、医学、農学など応用面で有益な部分が多かったのです(その弊害も問題となっておりますが)。実用的に便利な思考枠と、真実の世界とは(重複する部分もありながら)また別のものです。

 かつて網目の格子が1メートル四方の網しか使わないように決めた島の漁師がいたとしましょう。その網で代々漁を続けた子孫たちが、自分達は大きな魚しか見たことがないからといって、大海には1メートル以下の魚はいないといったら恥をかくでしょう。

 このたとえのようなことが生物学の現状でおきています。しかし、別にこれは生物学者が怠慢なのではなく、ほとんどの人がそうした世界観に生きていたといって良いでしょう。人間の歴史がマルクス主義に祟られたからといって、その世界観を勝手に生物に押しつけるのはかわいそうです。
 


 では、生物学はおとなしく唯物的機械論で首尾一貫していたかといえば、そうでもないのです。ほかならないダーウィニズムがそれをやっています。

 自然選択説です

 選択とは何でしょう。美しいハトを得たいとして育種家が品種を選抜するときには、目的を持ち意志を働かせます。また、こうした品種ができたらいいなと願います。これは人為選択です。

 これを「自然」にやらせるならば、機械に精神を吹き込むことになります。ダーウィニズムは機械論を標榜しつつルール違反をおこなっています。同型の過ちは性選択の説明でも繰り返しております。

 それはこうしたアナロジーでも出てきます。
 均整のとれていないガラス玉をたくさん用意します。いくつかくぼみや障害物のある長い坂を用意し、一斉に転がすと、割合真球に近い玉が確率的に遠くまで転がります。それを何回か繰り返す内に、丸い球に近いものが選抜され残ります。生物であれば、それらが交配し、その性質は遺伝することによって群集内の丸い性質を表現する遺伝子の割合は増加します。

 

 こうしたモデルは、機械論的に選択を説明しているようですが、この思考実験には「球は坂を転がる」ということを予め知っていている存在が必要です。自己同一性を持つ「」なくして、選択はありえません。

 「アルファベットチョコをばらっとばらまいたら、偶然にシェークスピアの「ハムレット」が出来上がるでしょうか。何千何万回繰り返したって無理です。」
 「だから自然選択が大切なのです。いいものを積極的に残してゆくことで、その確率は飛躍的に上昇するのですよ。」
 「しかしそれは「マックスウェルの悪魔」ではないですか。」
 「・・・」

 物理学では追放されたマックスウェルの悪魔は、生物学の中に大量に潜んでいます。

 選択は、情報という価値をもったエネルギーなくして起こりえないのです。

 多くの進化論者は、分子から、高分子、細胞や生き物が進化して脳を発達させ人間にいたり、知性を生み出すと考えています。しかし「知」があって時間があるのです。知性の存在なくして、自然や歴史はどこにあるというのでしょうか。われわれの精神以外のどこに過去があるというのでしょうか。

 自然選択は、私も存在すると思います。そして、選択を自然に付与すること自体は間違いではないと思います。しかし自然選択を生かすためには最低でも、生き物達に精神がやどるアニミズム的世界観が必要です。アニミズムに片足をいれ、もう一方の足を当時の時流だった唯物論にいれた進化論は、学問的にもあいまいで不誠実です。

 この姿勢のまま、ミームとか、利己的遺伝子とか持ち出しても哲学的土壌が日和見で惰弱なため、都合のいいときにどちらかの思想に逃げれるようになっています。これは科学ではありません。

 生物学から唯物論、機械論、偶然論を切り離すことが、今後もう一段の科学の発展のために必要なのではないかと思います。アナロジーといえば、生物機械論もアナロジーであって真理ではないのですが、こちらは歴史もあって、なかなか虚構の思考枠であることがわかりにくいのかも知れません。

 生物や自然に選択に関する精神性をつけ加えるからといって、古代返りと落胆することはないと思います。ニュートンは、質量の概念として、現象に関わりなく「その密度と体積の積によってはかられる量」という理念を、縦・横・高さの物質界につけ加えて以降、科学時代が開いたのです。

 その質量の起源は今でもはっきりわかってないのでしょう。宇宙に散らばった塵が、ある時、偶然に密度が濃いところができ一カ所に集まり始めて星を形成し、その結果重力ができたと思っているような人も多いと思います。物質の集まった結果が重力ではなく、空間に重力場ができて、物質が集まるのです。
 
 生物学にも場のような、見えないけれども物質に影響を与える領域を想定する人もいます。そうした理論を仮設し、実証してきたのが科学の流れです。

 生物身体を研究するならば、いままでの生物機械論でいいのです。その方が、解剖実験などで胸を痛めることもないでしょうし。

 しかし、生命や歴史を探究するには、それでは不十分です。そのためにはまず、人間精神の探究が必要です。人間が自らの使命を知らずに、生物の生命を知ろうとするのは、河に流されながら三角測量するようなものです。

 そこで生物科学の哲学として、科学哲学の源流でもある、本来のデカルトやカントの哲学の精神へもどることはできないでしょうか。

 もともとデカルト哲学は、この世の中の全ての存在(私たちの心のなかの産物を含め)から、縦・横・高さの3次元を抽象して、精神と力学が支配する自然とを分離したのであって、精神(神)が前提にあるのです。カント哲学も極言すれば、世界全てが精神世界であり、そのうちニュートン物理学が支配する現象界と、その世界を道徳的に統治する叡智界とに分離し、現象界を支配する法則と精神法則の一致するところに目的論を仮設したのです。
 人間の精神を前提とした哲学です。考える主体があってはじめて科学がありえるのです。

 唯物論はそれらから換骨奪胎した応用科学の表面的領域であって真実の世界を描くことは不可能です。長い哲学の歴史を省みない進化論は、多くの有為の頭脳が努力し体裁が整えていても残念ながら機械論にとらわれている限り舌足らずです。
 
 


 デカルトは全世界を精神界と物質界に分離し、明確な世界観を近代に提示した

 その物質界の運動法則を発見したニュートン。力が神に属することは哲学上当然であった(3次元座標での運動の記述はオイラーによるという)
          (デカルトの物質界はエーテルで充満したもの)

 ヒュームによれば科学法則も精神も、経験されないものは疑わしい

 カントは科学法則の真実性は人間が与えると再定義し、その世界を合目的的に観ることも許容した

 フィヒテは道徳・人倫を優先させた

 シェリングは観念論に自然の実在性を与えた
 唯物論は世界のすべてを3次元のオリの中に閉じこめた
 進化論は、このオリの中では無敵であった

 

 デカルトは生物については機械論的だとされていますし、カントでも目的論はあたかもそのように見えるという擁護の仕方であって、科学の領域としてはニュートン力学が支配する世界でした。

 そこで哲学する我が、自然を「知」としてその実在性を受容するシェリング自然哲学に依拠して、生物進化を考えてみたいと思うのです。

 ここでは、生物進化を扱うにあたって、唯物論・機械論では材料がたりないことをみてください。

2001.11