今西錦司の進化説の紹介で、「運者生存」という言葉を見うけることがあります。実際今西錦司氏も自説をそのように説明している箇所があります。この運者生存という言葉は、個体主義のダーウィニズムの観点からながめた自然選択を批判した言葉であって、特に進化を説明するために使った言葉ではないのですが、「今西=運者生存」だから説明になっていいないという、的外れの批判もあるようです。
実際に最適者生存を自然界で確認した人は一人もいないでしょう。我々は常にそこに生存している生物個体を見るだけです。下の図(今はない)は、産仔数が70匹相当の生き物が配偶者を得て、子孫を残していく経路を描いてみた図です。二個体から生まれた世代は、この生き物の個体数が変動しないとすると、平均してやはり二個体が生殖期まで生き残ります。その他は他種を肥やすエネルギーとなってしまいます。生き残った二個体は、適者かそうでないかはわからないが、「運者」がもともとそういった意味なのであるのだから運者であるということはずるいですが間違いではない説明です。このサイクルを繰り返して適者のみが生き残っていくと考えるのは信仰に近く、よし変異個体が生き残ったとしても、この大海の中で埋もれてしまうことだろうとは、歴史のある批判でもあります。
なぜ、今西錦司が運者生存をもってきたかといえば、種に属する全個体は、どれも種のレベルからみたら規格統一され、どの個体が生き残っても種の存続に影響がない、という種の定理からきています。もともと同じとみなされるものを種と呼んだのであるからです。
今西進化論の原理に、運者生存は重要ではありません。確かに現存の種は、現代の環境に適しているとはいえるが、ただその種の中で、我々が目にすることのできる現存の個体は、ただ運が良かったといっているのです。
ところで、日本のクワガタだけでも20種近くいます。地域変異を含めたら多数の亜種を見ることができる。これらの種は本当に、”クワ”のかたちが有利で変異したのでしょうか。クワガタには、ノコギリクワガタなどに顕著な、個体の大きさによってオオアゴの形状が異なるものがあります。小型でクワが直線状のものを、「なた」「いとノコ」などと呼んだ覚えがあります。これらはいつになっても見ることができるものです。幼虫時の環境条件でもこの変異は出現します。この小型種も、小型種の雌と交尾できれば性選択も意味を持たないでしょう。大型が小型を追い払うようなところを見て、大型が優位である考えてしまうが、時間的なすみわけなどしつつ両タイプとも共存しているのです。
クワガタのクワガタたる自然の要請は、幼虫時に落葉樹の朽ち木を食べることとそれを餌にする動物(と人間の子供)への献身くらいなもので、後の形態は余剰なのではないでしょうか。ムシたちが形態の美をきそうことのできる”あそび”の部分なのではないでしょうか。ミヤマクワガタの肢の黄色い斑紋は何に機能しているのか、スジクワガタの並んだキバはコクワガタにない有利性を持っているのか。そんな人間の詮索などかまいなく自然はもっとおおらかに進化の余裕を持っているように思えます。「創造性がいまは生活と直接に関係ないような形質の変異を通して現われるよりほかなくなったとかんがえられないであろうか。」とは、『生物の世界』の言葉です。
(今西錦司の世界)