自然哲学の医学思想


病気や疾病とは、健康を阻害してきたいろいろな条件からくる結果や影響をとり除こうとする自然の(働きの)過程である。癒そうとしているのは、自然であり、私たちは自然の働きを助けなければならないのである。

内科的治療も外科的治療も障害物を除去すること以外には何もできない。どちらも病気を癒すことはできない。癒すのは自然のみである。外科的治療は手足から治癒を妨げていた弾丸を取り除く。しかしその傷を癒すのは自然なのである。

以上は「ランプを持つ天使」、フローレンス・ナイチンゲールの言葉です。(ナイチンゲール言葉集 ―看護への遺産 薄井坦子編 現代社白鳳選書 <16>)

 私には、西洋医療がたどった病気と健康への考え方の変遷について概説する能力もありませんが、確かに西洋にも東洋医学に共通の「霊肉のバランス」といった考え方が根深く浸透していましたし、デカルト以降の「物質と精神とを別々に考える」という哲学のもとにあっても、精神面への配慮が治癒と関係のあることは医療現場にある人にとっては、明らかなことであったのでしょう。。

 肉体を機械と見て、その円滑な稼働を阻害する毒素、細菌、ウイルス、異物を取り除けば健康。欠乏した微量成分を投与すれば健康。といった哲学が、これまでの医療の指導的な方法であったのではないかと思います(それはそのまま農業にもあてはまります)。そしてこれは大きな成果と権威を生み出しました。こうした時代の幕開けの時にあって、そしてその方法を科学的・組織的に看護に取り入れたようなナイチンゲールのような方にあって、なお医療とは、医術により身体から物理化学的な悪要因を除去することと言い切るのではなく、病気を癒す主体は「自然」であって、医療や看護はその補助という考えを持っていたのです。
 

 ラマルクの進化思想にも、「自然」が主体となって物質的宇宙を運行させている、進化させているといった考えが現れているということを、「今西錦司の世界」で紹介したことがありますが、年代は多少のスパンを置きながらも、近代ヨーロッパには、キリスト教的な人格神を超えた「自然」という大きな存在が、この世の変化を司っているという思想が諸学に大きな影響を与えていたことがわかります。

 私はこうした肉体身体を超えたおおいなる自然というものに、とても親和性(なつかしさ)を感じるとともに、こうした自然や人間に対する優しいものの見方と、近代医療の持つ優れた技術が見事に融合してゆくことで、患者にとっても安らかな療養を楽しめるのではないかと門外漢ながら思っています。医療者もまたこうした自然や患者の精神と触れ合いながらの仕事が、あらたなあらたな生きがいの創造になると思います(でも、おそらくこうした感覚は非常に微弱な思いの振動で、過酷な医療現場にとってはとても余裕はないのかもしれません。私もいざ解剖する立場にあったら、人間は物質だ、苦悶の表情は脳の電位作用の顕現だと、思い込みたくなるかもしれません。精神と物質の壁を壊して医業を続けるということは、強くかつ優しくないと勤まらないですね。)

 最近、「ゲーテ時代の医学思想―シェリングの自然哲学的医学思想を中心に―」という板井孝壱郎先生(宮崎医科大学)の論文を、HP上で拝見しました。
 
 「シェリングが強調しているのは、自然哲学は確かに自然科学的探究に依拠しなければならないが、自然哲学にとって大切なのは、数量化可能な経験 だけであってはならないということである。近代実験医学は、生命諸現象が属する一定の対象領域を客観の連関として探究する。しかし、科学的データに数値として表されている経験だけをいくら加算してみても、そこから自己産出的な現実の有機的な生命概念に到達することはできない。HP文章抜粋
 

 近代自然科学が世界全体から三次元的(機械論的)世界を抽出して、その世界内の発展を目指したきたことを踏まえて、もう一度世界全体像の構築のために古くて新しい自然哲学を振り返ろうよ、という思潮があります。板井先生のHPの論文を見て、とても刺激になったのですが、やはり同じ構図でドイツ・ロマン派医学や自然哲学的医学思想が現代医療に示唆するものといえば、人間機械論のプログラムを片目でながめつつ、もう一度つぶっていた精神の眼をひらこうよ、という視点の呈示かと思います。そのときに科学技術を躍進させてきた左目(ちょっと近視気味)も閉じずに、(科学の恩恵に感謝して)雙眼でくっきりとものごとをみてゆきましょうという態度が大切なのでしょうね。

 シェリングの自然哲学には、根源に(人智では把握不能な)絶対者(神)があり、その絶対者が顕現した、『「絶対者(主観の源)」―「顕現化された絶対者(客観の源)」』という拮抗する二重構造と、絶対者であるゆえんの「絶対」という一への復帰運動とが、絶え間ない自然の変化の要因となっています。この弁証法が、質;「質―重さ―重力」、光;「磁気、電気、化学過程」を生み出し、生命;「感受性―刺激反応性―産出力(形成衝動)」を生み出します。

 人間にとって客観たりえない神があって、それでもその神に近づいてゆく努力の中で、自然と歴史はどのように見えるのだろう。神の見ておられる自然と歴史とはどういうものなのだろう、これがシェリングの関心であったと思います。その中の無機物も生命も、世界の主観と客観の揺れ動く境界のできごとであって、共通の「正―反―合」の運動から成り立っている。

 私たちの健康も、罹病と治癒の過程も、この運動の中にあると考えられます。そして生物進化の過程も、個体における拮抗する二つの力の異常(罹病)、病気、治癒という過程と同質の力によるものという考えがでてくるのです。この最後の点に無理やり導いてきましたが、これについてはまた、「今西錦司の世界」のほうで展開します。

 さて医学思想の話題に戻りますと、疾病とは二つの拮抗する力のバランスが崩れたことによるのですから、その原因を取り除けば病気はまた治るものでもあります。治る過程は、自然があるままの姿に復帰する過程です。病床にあれば人の同情をもらえるとしか思えなければ、病気が治らないよう小さな自己実現をしてしまうのです。そうした精神の病も「医」のうけもつ領域なのかもしれません。あまりテーマを定めず書いてしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。


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