利己的遺伝子---自然選択原理主義の流れ

 利己的遺伝子とは、 『利己的な遺伝子』(1976)の著者 リチャード・ドーキンスが中心に提唱した進化論解釈のキャッチフレーズです。ダーウィンの自然選択説の急先鋒でもあり、ダーウィニズム(自然淘汰)原理主義と自称するくらいで、ダーウィニズムの直系を担っていると考える人もいます。生物の様々な形態や、時には自己を犠牲にして他を益するように見える動物の行動も、その個体の(性質の)遺伝子が、存続し増えてゆくために進化したものと見ます。さらに比喩的には、生物は、DNAが自己DNAを未来に残し個体間に増やして行くための、乗り物であるという考えにあらわれ、極論をすすめて、様々なSFの構想をかき立てる源泉となっているようです。もちろん、ダーウィニズム的機械論、偶然論を継承しているから、「〜のための」という目的論的な紹介は承認されないでしょうが、一般書は遺伝子の声を代弁している書き方の本が多いようです。

 ドーキンスによって著書冒頭でも批判されているコンラート・ローレンツは、自然選択によって受益するレベルを,「種」と考えることもありました。今西錦司も、生物の社会と進化の単位を種と考えます。ミツバチのワーカー(働きバチ)が自分で子供を生まないのに、親が生んだ弟妹たちを献身的に育てる利他的な行動を、ドーキンスら社会生物学者は遺伝子の利益という視点で一元的に説明するのに対し、今西錦司はミツバチの家族全体を、女王バチ(産卵)と娘バチ(産卵以外)との分業による一つの「超個体的個体」として考え(1951)、ミツバチの家族全体を、一匹のイヌなどの個体と同格に扱う見方をしています
(『人間以前の社会』;この本に紹介されているBelonogasterというハチは、娘バチも妊性がありながら親バチの仔の面倒をみる)。とすれば、今西にとっては、ワーカーは「準細胞(器官)的個体」といって差し支えないでしょう。こうかくと全体主義を嫌悪する人の眉をひそめさせるのですが、動物で認められた理論を、人間にあてはめる思考順路は、すでにダーウィニズムの陥穽に落ちた楽ちんな考え方であって、自然哲学の立場からは逆立ちした考えであると言っておきます。
 同レベルの誤りとして、不妊のワーカーによる利他的行動の謎ときをはじめとした、[包括適応度-利己的遺伝子]説は、ダーウィンの問いかけには、すでに問題をはらんでいたことが指摘できます。一匹の個体としてワーカーをとらえてその進化を論じること自体、(人間が個体にのみアイデンティティを感じ、押し付ける点で)擬人的であり近代科学としてのルール違反をしているのです。
 
◆利己的遺伝子説までの歴史的経緯

 ダーウィンは生物が進化することを世に知らしめ、その理論として主に自然選択説を唱えました。ダーウィンの仕事の中で、生物が変化していく様を実証できたのは、「人為選択による品種の起源」ではなかったかと思います。多様な種が過去分岐して存在していることに関しては、個体差をふるいにかける自然選択という仮説をたてたのですが、この仮説が誤っていれば、後の理論も誤っていることになります。この幹に次々と仮説が付加されるのですが、進化論の帰結を人間にあてはめようとする二重の哲学的過ちをおかすものと、現象を理解する上で有益なものもあります。天動説が誤っていても、周天円など後付けすることによって天体の運行の予測は可能であったように。
 しかしダーウィン自身は、自らの自然選択説で説き得ない現象に気づいていました。彼は『種の起源』第7章で、働きアリのような子供を生まない個体は遺伝子を残さず、自然選択によって真っ先に淘汰されるべき存在であるのに、それが進化して現存していることに誠実な悩みをつづっています。そこで、働きアリが生殖して兵アリや蜜をためるアリなどの仕事分化した性質が生殖によって混ざってしまったら不利益なので
(彼は自然選択によって獲得した有利な性質でもすぐに生殖によって消えてしまうではないかという反論を受けておりますが、自説を守るためにはこの論を利用しているように、『種の起源』は様々な解釈ができる万華鏡のような本のように感じます)、分業を持つ家族ぐるみ自然選択で残ったというどちらかと言えば、ドーキンスとは逆向きの憶測をしています。確かに、個体を進化の単位をみると、自己の生殖を断って他の個体の繁殖を手伝うような利他的な行動は、説明が困難であったのです。

 ダーウィンは進化や生態に関する広範な内容を著述し、生物個体が獲得した有利な形質も子孫に受け継がれること(ラマルクの説でもある)も、パンゲネシス(パンジェネシス;パンゲン説)という仮説をたてて理論化を試みたのですが、後にドイツの動物学者アウグスト・ワイスマン(ヴァイスマン、ワイズマン)は、「獲得形質の遺伝」と同時にパンゲン説も否定し、生物が変化し現存種が分岐してゆく原因を、「(個体の体細胞からの影響はない)生殖質」の変異と、自然選択説のみで解釈しています。この際、自然選択は最強の生殖質が生き残るために働くとし、生物は、この受け継がれる生殖質が持続するための乗り物という主張もしていました。この説自体は、利己的遺伝子の思想とは関係がないですが、ドーキンスまでにつながる自然選択万能主義の一連の思潮はワイスマンを端緒と考えることも可能です。

 その後、メンデルの遺伝法則が再発見され、生物の形質は遺伝子が担っていることが明らかになると、生物の変化(進化)は、自然選択の過程を経ないでも遺伝子の突然変異のような一世代の変異が原因とされるように考えられ、ダーウィニズムは下火となる時期がありました。ダーウィンとメンデルの対立を統合し、「進化の総合説」、ネオ・ダーウィニズムを復興させたのはJ・B・S・ホールデンら、欧米の遺伝学者でした。遺伝子の変異はメンデル則に従い、その変異の結果の個体差の広がり具合は、自然選択によって決定される。
この考えは、分子生物学の進歩とひろがり、ダーウィンが悩んだ生物の利他的行動の解明にも挑戦したのです。ホールデンの「いとこ八人の命を救うためなら、自分は死んでもいい」に象徴される利他的行動の遺伝的解釈は、ウィリアム・ハミルトンの「包括適応度」の概念によって、定式化されます。自然選択のふるいは自分個体だけの適応度を考えるのではなく、自分が利他的に助けた個体の適応度も(包括して)考慮に入れなくてはいけない。
 ハミルトンは、働きアリが自分で子供をつくり遺伝子を伝えるよりも、自分と共有する遺伝子を持つ親の子供を育てた場合のほうが、自己の遺伝子をより多く残すことができるならば、こうした働きアリのようなワーカーは進化上存在しうるということを言ったのです。

 ここで、ドーキンスが登場し、包括適応度という概念を遺伝子の立場で統一し、ある個体の利他的行動は、遺伝子を増やすための手段であると主張したのです。遺伝子が自然選択の受益者(適当なことばではないが)となり、働きアリの利他的に見える行動も、遺伝子にとっては利己的にはたらく作業にすぎないことになります。より擬人的な比喩を使えば、遺伝子は、自分の搭乗機(個体)を操作し、あくまでも自分のコピーを増やす方向で自然選択が働いた結果、生物は進化するということになるでしょう。
 論敵でもあるN.エルドリッジの文章を借りれば、「個体を構築するための指令である遺伝情報は、それが作り上げるシステム(個体そのもの)よりも重要だという仮定を前提としている。遺伝子間の次世代への生き残りをかけた競合こそが進化なのである。
『ウルトラ・ダーウィニストたちへ』」となります。
 
 科学的な思想には、この場合には利他的に働くとか、この場合には個体群に働くとか、煩雑な説明を嫌い、統一理論で説明をすることを好む性質がどうしてもあります。ダーウィンが個体差を自然選択によってふるいがけした進化論、その射程に入らない事象を、後生の崇拝者は「個体」へ与えたアイデンティティを捨て、遺伝子までそのレベルを還元させながら「自然選択」の原理性を守り、「利己性」で一元化を図ったのです。さらに自己をコピーするという遺伝子の解釈を広げて、遺伝子に統制されていない文化のような対象も複製単位とみなし、ミームとなづけた文化的行動も自然選択を通じて広がっていくと論を展開し、自然選択原理主義を徹底させました。遺伝子のみでは扱えない文化の継承のような内容に対して自然選択の力の及ぶ範疇を広げ、おそらく人間の進化も自然選択説で説明したいがためでしょう。
 
 利己的遺伝子の比喩は、自己を複製する遺伝子の‘情報’が不変であり、生物個体はその情報自体を存続させるための道具にすぎないとして、イデアと形相という西洋文明になじみのある考えに擬態している点が、内服しやすい様相となっているように思います。あるいは遺伝情報、ミームといった情報単位の伝播を考えることで、情報科学の世界と相互に影響を与えたことも流行の一因となったことでしょう。

 今西は、自己同一性を持ちながら自己運動によってかわるものを種の主体性として、生物にあてはめ、この種の主体性による進化をセオリーとしていましたから、遺伝子を自己複製子として進化の主体とし、個体を乗り物と考えることとは、極右と極左の逆方向の思想ながら全体主義的な様相は似ている部分もあるわけです。
 しかし似て非なるもの、羊頭狗肉、利己的遺伝子の自然観は、動物の親愛的なる行動、せっかく進化の新しい位置に獲得した利他性を、現在最も貶める威力をもった思想です。それにとどまらず、この見方を人間にすこしでも拡張しようとした場合、激しい哲学的誤りをしていることを、このサイト全体を通して訴えているのですが、もう少しわかりやすく書けないものか、今後とも努力したいと思っています。
 ドーキンスは「唯一われわれ
(人間)だけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できる」と書いていますが、こんな皮相な慰めに騙されてはいけません。利己的遺伝子が、思想として人類に与えた深い悪影響は残念ながらしばらくぬぐうべくもないのかもしれません。

2004.4
(今西錦司の世界)

戻る