補講3 進化論;自然選択を考える


 自然は、全てです。全宇宙でもあり、私たちの思いの中に浮かんだ心象も、客観視されるまた一つの自然です。これは世界の空間的な理解の一つの方法です。
 同じことが、「歴史」についてもいえるでしょう。星降る天空も、心の感情も、また歴史的光景の一部です。世界全体は、自然と歴史という見方で、立体的に理解できるものと思います。
 一方、科学法則には歴史はないといわれます。古典力学や量子力学の物理式に、時間の向きはないということがいわれます。もちろん、地学、天文学、生物学そして熱の学問領域において歴史はありますが、しかし一般的には、誰がいつ試しても同じ結果が得られることをもって科学的と称することが多いでしょう。これが科学技術が普遍的で、威力のある根源の思想です。

 この科学は、ニュートン、デカルトの思考の枠組みに依っております。全てを含む自然から縦・横・高さ+時間の四次元時空間が抽出されて、そこでの質点の運動の記述を目的とした力学的自然観が、近代ヨーロッパの科学者、哲学者、数学者によって創造されたのです。様々なエネルギーの形態を、仕事と情報伝達に利用することが可能となり、科学は一つの真理として地位を得ることになりました。この自然観は、電磁気学により、加えた力に対して垂直の向きの力が生じる現象や、光速度一定の原理などが導入され、場の概念と時間・空間の変更など、そのままの形ではありませんが、現代に至るまで時間の向きを考慮しない学問体系が構築されてきたわけです。
 くりかえしますが、自然はもともと全てであったのですが、ここから人類に資する力を効率よく得るための自然観が創られ、効率性と時代や地域に左右されない普遍性によって、四次元時空間内での客観的記述という真理体系が構築されたのです。

 さて、ダーウィニズムの根幹をなす自然選択の「自然」とは何か考えてみます。ダーウィンの思想を間略すれば、「種を構成する個体には変異がありその性質は遺伝する。全ての個体が子孫を残すわけではなく、生存(環境)に適した性質をもったものが子孫を残しやすい。そこで、世代の経過につれて、生物はより適応的なものに変化する。」といえるでしょう。また、現代正統派を名乗る進化論では、まず遺伝子の突然変異がおこり、その変異がたまたま環境との適応度が高い表現型として個体にあらわれた場合、自然選択によってその遺伝子を持つ個体の頻度が高まり(個体群においてその遺伝子頻度が増加し)、この変異した集団が隔離されて新しい種となる過程を進化とする、ような説明を与えています
(諸説多く批判は絶えず)。この説のとおりに生物が進化することはあり得るとは思いますが、私は自然選択説で全ての進化や種の分岐、生物の多様性を説明できるとする点には賛成できません。
 正統派進化論も時代と共に変遷しておりますが、「自然選択」あるいは「選択圧」という言葉からは自由になれません。自然選択が、まったく生物の外部環境の「自然」が選んだとする考えならば「選択」の意味をより深く考える必要があります。。

 ダーウィンは、人為選択による生物の変化がある以上、自然選択といえる現象もありえると論をすすめています。育種家による人為選択には、「選択」を意志する人間の存在があり、確かに品種の変遷はおこり続けている事実です。しかし、
人為選択が存在するから自然選択がありえるとは簡単にはいえないのですが、進化論者はこの考えを疑ってはいません。
 選択とは、四次元時空間からは導きだせない概念です。時間の前後を知る精神が必要です。この精神とは、やはりデカルトが近代科学を設立する際に区分けした、「精神と物質」の精神です。科学は、この物質世界の解明を範疇とし、精神が物質に働きかける境界について述べることはまだ学問的に確立されていないのです。物理学ではよくその範疇はまもられており、情報を得ることなしに、たとえば自然が低い速度の分子の中から速い分子をセレクトすることはありません。情報とはデータとは異なり、意志決定する主体性、精神と不即不離の関係にあります。しかし生物学では、無前提にこの選択する自然を考えています。現代の科学であつかう意味での自然には、時間の次元を超えた時間の前後を知る定点がないため、この意味での自然選択はあり得ないと思います。

 では何故こうも自然選択説が唯一の進化論と思いこまれているのでしょうか。それは、四次元時空間の材料を持って唯物論的に考えなければならないという思考枠の中では、統計的な自然選択説(それも結果論なのですが)しか可能な説として導出できないからだと思います。あるいは、偶然の自然選択説が最強の理論として有効なのは、唯物論的思想が科学の威を借りて無前提に押しつけられているからに過ぎないといえます。しかし『唯物論哲学入門』(新泉社)を見ると、エネルギー転化の法則、細胞の発見、それから、進化論の前提がなければ唯物論は本当に展開できません、とあります。すると唯物論と進化論は、互いに向こうが正しければこちらも正しいといっているのであって、「聖書の天体の記述は正しいから天動説が正しい、天動説の正しさは神の御技を証明する」と論理構成は同じです
(私は聖書が多くの人を導いてきたことは疑いません、適切な例があげられずすみません)

 もし自然を、近代科学が明らかにしてきた四次元時空間内の世界と考えるなら、自然選択はありえません。しかし人間が品種を選択してきた主体性を、自然に付与する哲学を構築できれば、低次の進化理論として自然選択説は学問としてその位置を保証されます。デカルトがいう「精神と物質」の霊肉二元論の「精神」を人間のみに認める哲学を物理学の出発点とするならば、この「精神」を自然にも認めるシェリングの哲学は、真の進化論、生物学のよってたつ哲学になりえると思います。ゲーテの思想も非常に近い位置にあるのですが、また今西錦司の自然観も近い位置づけができると思います。
 この精神という主体性を自然の中に創造する哲学・思想への理解が浅いことと、今西進化論が理解できない人が一定以上いることとは相関しているでしょう。

 自然は全てです。その自然を一個の「知」と把握するには、学校で習う教育のほかに別の努力が必要です。
 そこで次回は、今西自然学への方法論について考えます。

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