気まぐれ企画4宇多田ヒカルと時間論

宇多田ヒカルは「時」を詩う
I. ファースト・アルバムの『Fi
rSt LOVe』収録の「time will tell」では、「I just can't control the time 〜  だからそんなあせらなくたっていい」と、「時間」を、自然と流れるもの、そしていろいろな悲しみなども流してくれるもの、でも運命に流されるのではなく、「青空へTake off!」する意志はわすれないで、と歌っています。

II. 続いてセカンド・アルバム『Distance』の「タイム・リミット」では、「仮に今しか言えない言葉があるとしたら それを聞かせる声が私かもよ」「仮に何事にも終わりが訪れるとしたら尚更「今」を愛せる気がするよ」と、時について先ほどとは少し違う性質を歌っているように思います(ちなみにこのフレーズ、メロディいいですね!日本語がこのようなメロディにのるということが、この天才少女によって示されたのだと思います。恐らく和歌の昔から日本語は音節に母音を合わせる制約が無意識的に出来上がっていたのでしょうが、なんと自然に次のステージへ移行していたのでしょう)

 恋愛における成功と後悔の臨界時点で、「告白」をめぐって「今」をけしかけている女の子。この「今」は、恋愛における「機」を歌っているのですが、「機」は大げさに言えば禅的な悟りにも通じる「時」の解釈になるのです。「今」、勇気をもって愛を告げた後の未来と、告白しなかった未来。「今日選んだアミダくじの線がどこに続くかは分からない(Letters)」けど、全く違う未来がそこから流れてゆく、その決断の点。時間は、河の流れの様でありながら、また「点と点をつなぐように(Deep River)」断続の連続でもあるようです。
 宇多田ヒカルは意識的にこの2種類の時を歌い分けているようです。そしてきっと「機」(Now = Chance! = Action!)が、彼女の成功の思想になっているのでないかと、彼女の詩から窺えます。そして自分の曲を聴いてくれる同世代のファンたちへの、「迷っているなら、言葉にさせずにはおかないよ!」という「今」を捕まえさせようと応援するメッセージがこめられているようです。

 さて、この二種類の「時」をめぐってもう少し話をすすめてみましょう。今の時代の私たちが普通に時間といえば、時計ではかることのできる24時間刻みの「何か」の流れでしょう。これは科学を本当のことにするためにいわば創られた「時」の一つの解釈のあり方です。地球の公転を基軸とした客観的な時です。
 もう一つ時には、「今」の中に、過去も未来もあるとする歴史という価値を含んだ時があります。歴史が教える時というものは、科学の時間とは違う様相を語り出します。過去も、今の中にあります。たとえば、明治時代のように海外から西洋の文明を取り入れた当時は、日本が過去アジアから様々の文明を吸収してきた歴史が真実であり(もちろんこれは今も真実ですが)、それ以前の時代は蒙昧とした世界であったのが、日本が世界の中で居場所を捜し求める現代においては、縄文時代に日本独自のアイデンティティを見出すことが真実になるのです。

 「この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなと斯う考えだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。」とは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜(初期形第三次稿)』にある言葉ですが、これが歴史のいう時の性格です。今という時の中にしか過去はなく、過去は今の制約を受けた姿しか見えない。そして未来も今のうちにあります。未来を変えるには今を変えればいい。

 進化という歴史を含んだ性質のものを、科学のさす時間のみで解釈できると科学者が考えているのならそれは間違いです。生物の歩んできた道筋も、歴史として扱う一面があるのです(もっとも、いまでは歴史学者も、科学の時間に阿っているようですが)。一つの種が選択した未来は、他の生物種にとっての未来を変え、その変化が変化をよびます。人間の歴史を科学が取り扱えないように、生物の歴史も近代科学では扱いきれない部分を持っているのです。
 今の科学の限界が、生物の過去を知る限界になります。「今」の生物の世界をより一層深く知ることができれば、より真実の生物の歴史(進化)が判ってくるのです。歴史と科学は、今を交差点として、結びついたもののようです。

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 しかし、今を前後裁断する考えは、悪を助長することにも使えてしまいます。宇多田ヒカルは続けます。
III. 「「今さえあればいい」と言ったけど そうじゃなかった(誰かの願いが叶うころ)」。これは「今」を
チャンスに変えてきた人の撤退の言葉でしょうか。そうではないようです。地上に生きている限り「時」は客観的な制約を必ず受けます(例えば先ほどの「今がチャンスだよ!」と恋愛を応援する歌であっても、「人」「時」「所」によっては悪となります)。これも一つの時のもつ性格なのです。「今がチャンス」と時をつかんだことが、他人の不幸という逃れられない事実となって突きつけられることもあります。この科学的な「時」の性格を受け入れ、さらに歴史的な「今」というの瞬間の性質も知りつつ、その上で他人の不幸とならないよう自己を整えて行動することは、もう一段の自己の成長となるのです。そして、この試練を乗り越える魔法の言葉も、すでに歌われています。

変えられないものを受け入れる力 そして受け入れられないものを変える力をちょうだいよ(Wait&See)」

ちょうだいよと可愛くねだっていますが、誰にでしょう。これが神様に願っているのであるのなら、これも弁証法的な成長なのです。
 I. 時は毎日毎日流れていく、運命というのはあるのだろうか、でもあったとしても「占いなんて信じたりしないで」もっと誠実に人生と向き合おう・・・(ヲー!)。II. 人生には、「今!」が運命を変える時かもしれない、「今!」が永遠の決断かもしれない、という機があるように思う。今の中に、過去と未来を感じ取れる時がある!さぁ勇気を持って時をつかもう!・・・・III. でも、やはりその行動に対しての責任は表裏一体にしてかならずついてくる。幸福な決断もあれば、そうでない結果を受け入れなければならないこともある。この原因−結果の法則だけは、変える事ができないならばそれを受け入れる力を下さい。そして、私を原因として受け入れられないことがあるのなら、自分自身を変えてゆく努力をお守りください(神様)・・・。
 こうして宇多田ヒカルの歌の中には、成長へのメッセージがあるように思います。

 時間の中の歴史性と科学性について、宇多田ヒカルの歌詞を材料に、脈絡もなく表面的でしたが述べてみました。

(今西錦司の世界)
2004.12

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