自己組織化進化論・散逸構造

 ジャボチンスキー反応によって代表される、秩序を形成する化学変化のように、生命進化も流れゆく物質・時間のなかで複雑な形態を創り出してきました。現代進化論の中で、今西理論と親和性の高い理論は、自己組織化の進化論です。自己組織化とは、やはり非線形的に「変わるべくして変わる」ことではないでしょうか。やはりいまだ科学の検証段階には至っていない理論のように思います。

 両理論ともその遂行の結果、生物はやはり変わるべくして変わったことを述べているのですが、見落としてならない部分が、今西論の種の主体性と思います。そこは、ラマルクの昔に戻り、生物側が環境に対して自己を変えてゆく主体を見落としてはならないと思うのです。自己組織化を、唯物的にとらえると、やはりたちの悪い機械論がもたげてくるのです。

 

細胞共生説

 リン・マーギュリスらの唱える、原生生物(真核生物)の由来を、多種の原核生物の共生によって説明する仮説です。高校の教科書では触れなかったこの説が、大学では当然のように扱われていて驚いた覚えがあります。核のDNAとミトコンドリアなどの細胞器官のDNAの比較によって、この説は認められています。共生は、一挙におこなわれると考えられるため、選択説の漸進論に痛撃な一打を加えています。 

 おそらく今西錦司も、環境の悪化によって原核生物が共生を始めたというこの説をよろこんで受け入れたと思われますが、ただし共生は、世界中でほぼ同時期に起こったことをいい忘れなかったことでしょう。ある一匹の微生物だけが共生に成功して、その生存効率によって他の原核生物を駆逐、真核生物の天下を築いたなどという選択説ではなく、各海域で共生するべく共生したのだということをつけ加えたに違いないのです。

 

構造主義進化論

 日本では柴谷篤弘、池田清彦らの推進した進化論。言語学で構築された構造主義を、遺伝暗号系に探ろうとする構造主義生物学者による進化仮説で、池田清彦さんによる安定化中枢説が有名です。池田氏はその著書『構造主義と進化論』で進化論史を著し、構造主義進化論の系譜上の前史にあたる位置に、今西錦司の進化論を紹介しており、今西進化論に高い評価を与えています。
 今西は種と主体性から、ユングへの傾倒のようにどちらかといえば神秘思想へと向かう道筋を持っていたが、構造主義進化論は理論は、あくまでも仮構であるとします。この点が、種を実在と言い切る今西錦司との思想上の差異です。両説とも、仮説が科学に変わる瞬間の、実験哲学が望まれているが、ここを超えずして未来に真の(近代以降の科学精神を宿した)生物学はあり得ないのではないかと思います。

 構造とは、目には見えず、触ることのできない法則で、将棋のルールにたとえられています。「銀将」がなぜ後ろに下がれないかを調べるため、駒一つ取り出して、そのツゲの木の成分を分析したり、「銀将」という漢字の成り立ちや部首を研究しても、わかるはずはありません。ルールはさし手の側にあるからです。将棋のルールなら、教則本を見れば明文化してあるのですが、自然のルールではそうもいきません。それを種社会の中から一個体のみを取り出して解剖しても、個体以上のルールが読み取れるとはおもえません。自然のルールを読み取る努力は、まず形而上の世界への探求になり、そこで創造された理論でもって、自然界を観察するという順路が必要なのではないかと思います。

 科学理論は、見えるものを見えない理論でいい当てる形になっています。天動説は、地球という不動点(不動かどうかは知らないがそのように定義)と天球という真球もしくは軌道という真円(もちろん見えない)によって、目に見える天体の動きを説明したものです。ダーウィニズムが科学であるといえるならば、天動説も立派な科学です。

 池田氏による文章を参考に、比較をしてみましょう。
天動説
ネオ・ダーウィニズム

 地球という不動点真円による理論。これが確かめられたことはないが、長い間真実と信じられた。聖書の教義との親和性。 

 生物の多様性と進化を、自然選択個体差で説明。確認されたことはないが、信じられている。帝国主義、唯物論との親和性。 

 惑星の逆行は周転円(エカント)によって救助。観察現象と理論があわなくなるたび後から周転円は増え何でも説明可能になる。ここでは真円は崩されない。 

 メンデル理論によって個体差が不変とされると、突然変異によって救助。さらに中立説、包括適応度によって、何でも後から説明可能になった。ここでは自然選択は崩されない。 

 煩雑な周転円は、単純で美しい自然という信念と矛盾。動いているのは天ではなく地球ではないか(地動説)。さらに観察例と整合するには楕円の導入が必要であった。   自然の階層構造や秩序と、ダーウィニズムによる種のカオス化とが矛盾。選択しているのは自然ではなく、生物の主体ではないか。 

 科学の進展は、この目に見えない構造が、いかにうまく物事を説明できるかという、精密性と広汎性の獲得の歴史と言えるでしょう。私はDNAに構造を見る方向には、あまり関心がいきませんが、この方向と、生物の精神性への探求方向は、一致する方向をもつものと思われます。いずれにせよ観察や実験との照合が望まれる分野です。進化を観察によって照合するためには、理論の先行より化石研究がもっと見直されなくてはならないであろうとは思っています。

(今西錦司の世界)