『青い鳥』の進化論



 といっても、オオルリ、コルリやカワセミの進化論ではありません。童話『青い鳥』の作者、モーリス・メーテルリンク(1862-1949)の進化に関する考えの一端を紹介したいと思います。
 『青い鳥』を読むと、メーテルリンクは人間がどこから来て、どこへ去ってゆくか、わかっていた人のようです。チルチルは「かわかないのにのむ幸福」「虚栄に満ち足りた幸福」など身体的束縛から自由になれていない幸福は、真実の光が臨むと不幸になること、「正義である喜び」「もののわかる喜び」などの幸福は、真実の光を敬愛していることを知ります。物語りを通して私たちは心を変えることで素晴らしい世界が見えてくることを知ります。ドイツロマン派のノヴァーリスの影響を受けていたメーテルリンクは、神秘主義的な作品を残していますが、そうした視点をもって書かれノーベル文学賞を受賞する契機となる『蜜蜂の生活』(1901)(工作舎)という作品があります。「アンリ・ファーブルは現代世界の有する最も崇高な、また純粋な光栄である」とメーテルリンクはファーブルへの賛辞を惜しまないのですが、彼もまた偉大な観察者であり、『白蟻の生活』『蟻の生活』などの昆虫記を書いています。そして、この本の帯には、今西錦司さんによる「メーテルリンクも学問的野人であった。・・・その特異的な進化論に瞠目する。」という推薦文があります。『蜜蜂の生活』の最終章は、「種の進化」という章で閉じられているのです。

 今西さんが瞠目した進化論とはどのような内容をもっていたのでしょうか。
かいつまんで紹介すると以下の通りです。


 インドのオオミツバチは野外で巣をつくるが、巣は働きバチの躰で守らなければならない。そうしたただ防壁としてしか働かないハチが多いと、一つの巣板しかもたないコロニーになってしまう。北方へいくと、オオミツバチは木のうろに巣をつくるため、仲間達は巣板を多くつくりコロニーは大きさも個体数も発展する。この同種内の性質の変化は、自然選択の賜とみる。

 しかし蜜蜂の進化に関しては、自然の中に進化を導く意志の存在を仮設しています。
 ミツバチ上科の進化
ハラツヤハナバチ ミツバチがもつ花粉かごや、体毛もない原始的な種で、その日暮らしの生活をしている。蜜ロウもつくらず、巣をつくることもせず、出来合いの巣に、見ることもない子供の卵を生む。食物だけは僅かながら残してゆく。

ミツバチモドキトゲハキリバチ これら中間過程の種は、すこしずつエサをとり、集めるのに適した形態をそなえ、営巣するための分泌物もつくれるようになります。かれらは単独生活者であるが、より器用な種族になっている。それは友愛的で快適な生活への移行を促す非物質的な力、理念が働いているかのようだ。

クマバチ 越冬期には群れることもある。これは友愛の理念があらわれ始めている。

カベヌリハナバチケアシハナバチ 彼らは巣をつくるために群をつくる。しかし単独生活者が集団を組んでいるだけの真の社会的なものではない。群れながら銘々が自分のための巣をつくる。

ヒメハナバチ 銘々に巣をつくることは前種と同じだが、巣は共通の入り口、通路をもっている。群であるのは、クマバチのように冬というやむにやまれぬ状況だからではない。

マルハナバチ 一匹の雌は巣をつくり、娘をそだて、その娘達も何匹かは生殖をしながら、共同の生活を行うようになる。徐々に理念が形を表してくる。

オオハリナシバチ 女王バチと働きバチによる友愛の理念はミツバチと同じくあらわれるが、仕事分担や巣の機能において劣るところがある。

 そして
ミツバチに到るこの進化の方向性はどう考えたらよいのだろう。それは人間と同じ途を進んでいるようだ。苦労、不安全、窮乏から逃れ、種の繁栄の方向性を持つ。個体を犠牲にしつつ、全体として繁栄する方向を選んでいるようだ。物質という冷たい法則と戦いながら、自然がどれだけ進化を守ってきたか。
 ミツバチが全身で表している器官と、その巣をつくり蜜をあつめる機能が一致しているように、人間も全身の器官をつかって、思考、知性、徳、善などとよばれる唯一をめざそう。


 ほかに、黒蜜蜂は一年中花の耐えない国へ移されると、2-3年で蜜の蓄えをやめその日暮らしをしてしまうことも書かれています。こうした習性の変化は、蜜の蓄えを偶然やめたワーカー(働きバチ)の遺伝子を共有する女王蜂の子孫が(あーわずらわしい!)、従来の同胞より繁殖率が高いために自然選択のふるいに残り繁栄したと考えるには、時間が短いように思います。
 ニホンミツバチは、侵入者であるスズメバチを集団で熱圧死させる習性を持っていますが、偶然一匹のメスがとった行動から自然選択によってその性質が広まったと考えるにはどう理性的に考えても無理があります。こうした昆虫の不思議な習性から、ダーウィニズムを終生批判した人に前述のファーブルがいます。有名な『昆虫記』には、ジガバチが、位置と深さを過たずイモムシの神経節をさしてゆくのを霊感に満ちた論理とみて、涙を流すシーンが書かれていますが、論にとらわれず観察を行った人は(彼らやベルクソンなど)、どうしても偶然による進化論を嚥下することは出来なかったようです。
 同じく今西錦司さんも、『人間以前の社会』で、ハチの仲間が、母性や家族性を発揮して社会性を得てゆく過程を述べています。
 
 社会性昆虫の進化は、ハミルトンの包括適応度で説明できたとされています。子供を生まない働きバチは女王ハチの子供、働きバチから見れば妹を一生かけて育て、コロニー全体に奉仕するような利他的な行動を行っているように見えますが、これが自論から導けなかったのでダーウィンは悩んでいたのです。ハミルトンは遺伝子の近縁度を考えて、利他的に見える行動も(自己の)遺伝子を未来に手渡すという視点からみれば利己的に説明できるということを示しました。さらに理論を先鋭していったのがドーキンスです。これはミツバチの利他性を尊厳なく見るための方法を考えた理論です。結果そのように説明できるということは人間の自由な表現ですが、その利己性のために進化したかどうかはわかりません。働きバチも卵を生むマルハナバチはどう説明するのでしょうか。社会性を持つ甲殻類は・・・。あるいは姉妹の子供を共同で育てる哺乳類のリカオンは。

 一方、生き物たちに愛情を注いでいる観察者は、どうしても単独生活者のハチから、社会性を獲得したハチまでの道のりが、生き物側の内的なエネルギーの発現度合に受け取れてしまうのです。これが観えてしまう。ここで「リカオン」で検索していたときに見つけた「動物たちのボランティア」という中川志郎さん(茨城県自然博物館館長)の素敵な文章を紹介します。ゴリラの飼育所に誤って落ちた幼女を、八歳の雌のゴリラが助けた話や、ゾウが仲間内で助け合う様子が描かれていました。動物園で勤務されている方は、こうした動物の愛情とも思える様子を多く観察されていると思います。こうした動物の利他行動を、利己的遺伝子のなせる業と貶めることに反発を覚える人は多いと思います。
 また、『カマキリは大雪を知っていた』(農文協)という最近の本で、著者酒井與喜夫氏は、惑星の位置を記録し続けたティコ・ブラーエのように、長年にわたりカマキリの産卵場所の高さと積雪量の関係を調べ、相関関係を証明しています。この本の中に、やはり著者がスズメバチなど生き物達と対話をしているような箇所があります。このような才能を規格的に産み出す教育法はありませんが、今西自然学が目指していた学問的手法はまさにこのようなものであったのだと思います。

 そもそも個体に注目してみれば、遺伝子のイの字も知らないハキリバチが、見もしない自分の子孫のために葉を集めて蓄える行為も利他的です。しかし子孫への愛情のため、エサのある場所に卵を産み落とす段階から、幼虫のエサを蓄える段階、巣をつくって守り育てる(このときはもう自分の子供を見ることができます)段階、社会的に役割分担があり一族の繁栄をはかるという段階まで、プリミティブな種から徐々に進化したように見えます。

 現在、生物の進化、ハチの進化に友愛という理念が発現したのだといってこれを科学的に学問化できる手段は持ち合わせていないでしょう。しかし進化の真相は、詩人が直観したようなもっと精神的な要因なのかもしれません。進化の探究にDNAの世界まで迷いこみましたが、青い鳥はもっと近く、一人一人の内面的な世界の中にいるのかも知れません。

2004.1
(今西錦司の世界)

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