「生命=偶然を超えるもの」  W. H. ソープ  吉岡佳子 訳    海鳴社

 

  この本は、ジャック・モノーの「偶然と必然 - 現代生物学の思想的な問いかけ」への反論といってもい。偶然という機械論を超えて、生物学を目的論や精神の領域へといざなう一書である。13年後にフランスで出された「神と科学」の論調と途中まで軌を一にする(ソープは二元論者)。

 

 一章の物質の世界では、やはり、物理学の見知から、科学が唯物論や機械論から離別する方向にあることを説明している。デカルトから主観、客観が分離し、デカルトが信じていたその両者をつなぐ神を、近年、デイヴィッド・ボームら物理学者が呈示し始めていることを説く。古典物理学はくつがえされたが、巨視的な分子生物学まではその振動は波及しないと思っているのだろうか、生物学者はいまだ機械論的である。そして宇宙の成り立ちに偶然の要素が考えられない事にふれ、自然淘汰ではなく「神聖な設計」が、物理学に復活していることを示している。

 

 生物は、物質的解剖的にみたら確かに機械である。生物機械論もそのように見る前提があれば、正しい面もある。生理学的、分子生物学的に知られる対象が挙がるにつれ、生物体の構造はより詳しくわかるようになった。この功績と道具としての応用価値はおちるものではない。しかし、明らかになった形態や代謝経路などが、どれほど精巧で、どれほどまるで計画されているように考える方が自然な、美しいものであったとしても、これがなぜここにあるのかという問いに対しては、「偶然です。」という答えしか与えられなかった。分子生物学の躍進は、生命の謎を解くのではなく、精巧な顕微鏡をつくったのだ。レンズ職人が望遠鏡をつくっても、天体の運動は理論がなければわからないままであったろう。DNAの塩基配列という情報のみが遺伝情報の唯一の担い手であると推定する論理的証拠はないにもかかわらず、生物学を、古典的な化学と物理学に還元しようとすることは、望遠鏡をもったまま答えをスコラ教義に探しているようなものではないだろうか。

 

 なぜなら生物とは合目的的な存在であるからである。ありのまま素直に自然を観察すれば、生物の形態と行動が、その生活環境に適応している姿を認めることは無理のない考え方である。食物の採り方や、雌雄のコミュニケーションなどをみて、偶然の産物が淘汰されてできたと考えるならば、目明きではないであろう。偶然とは無知を隠蔽する言葉でしかなく、後生の人から笑われることになるのは必至であろう。神はさいころを振り賜わず。3章「合目的的な生命」という章は、控えめながら目的論と人間の精神へ至る階梯的段階の動物の意識を紹介している。

 

 著者ソープは、明確に唯物論とは立場を異にしている。脳の機能など当時の先端の知見をつまびらかにはしているが、物質や脳そのものが精神を生み出すということは哲学的にあり得ないことを明言している。外界を映し出す自我(西洋的な意味での)のありかを、物質に求めることを批判している。物質一元論を否定し、ソープは哲学的土台を、カール・ポパーの三世界論にそって通訳しようともしている。詳しい説明は省くが、この論の世界3という人類共通の客観世界を、ポパーのように物質的状態の世界1と同列の人為な世界と考えるか、イデア界と考えるか、ここの立場は先ほどのようには明確にはされているようには思えない。

 

 最終章「自然における「精神」の卓越性」では、ホワイトヘッドの哲学を紹介している。機械論的世界像の中で培われた生物(体)学の躍進を評価しつつ、その論理的土台が物理学から崩壊していったことを受けとめ、非物質的な「精神」「霊魂」の過程を実質ととらえる一元論への傾倒を著している。自然を包み込む精神の無限の探究が、目的論、有神論へと到達することを予見してこの書を終えている。

 

 日本語のタイトルにもどって、「生命=偶然を超えるもの」を眺めてみよう。一時期生物学を風靡した機械論的偶然論への賞賛が、モノーをして「偶然と必然」という早まった書を書かせてしまった。カオスに立って秩序を偶然の産物として眺めるか、コスモスに立って秩序をありのまま受け入れるか。ソープはおそらく、モノー個人への対抗ではなく、コスモスへの愛着ゆえにこの本を書こうとしたのであろう。

1999/12