神と科学  超実在論に向かって       
     ジャン・ギトン+グリシュカ・ボグダノフ+イゴール・ボグダノフ 幸田礼雅 訳  
 

 この本の帯には、「91年度フランスのベストセラー!」と銘打ってある。はたして、日本でこのような本がベストセラーになる土壌はあるかと考えると、いささか心許ない。

 「科学の道を少し進むと神から離れるが、さらに究めればこれに回帰する。」というルイ・パストゥールの言葉を献辞としてあげてあるように、この本は科学と信仰の間にあってこの和解を考えた内容になっている。デモクリトスからマルクスに至る唯物論者にとって、精神は物質現象の範疇におさめられるものであった。人々が神から離れ、地上的なるものを材料に、堅固なる王国をつくろうとした時代。そのつくり手の一つに物理学をはじめとする近代科学の力、地上世界を照らした「自然のひかり」があったことは間違いない。しかし、真空の中に堅い粒子があるといった世界観から、さらに物理学が究められてゆくとそこに、精神と物質を超えた新たな世界観が広がっていることに、うすうす多くの人が気付きはじめた。波であって同時に粒子でもある世界。まだ見ぬ未知の世界が恐いのだろうか、まだ縦・横・高さの世界に安住する人も多い。しかし、また宇宙全体も進化している。このような本が売れるのも、次の時代の見取り図が求められているのだ。

 明らかにこの著作は、一度神から離れた科学が、哲学が、神との邂逅を果たすそのときを待ち望んでいる。

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 科学はいつしかニュートンの意を離れ、「存在」を物質の中にしか見いだせなくなっていました。19世紀の先進性を誇る人達はこのような単純な世界に生きていました。しかし20世紀、物理学者は確かと信じていたものが、指の先からこぼれ落ちる痛烈な体験をしました。そこから科学は、無常観の中、真実の神へ向き合うか、唯物論にしがみつく時代の逆子となるかの道へ選択を迫られました。ジャン・ギトンは「開かれた、未知のこの世界に近づいた今こそ、神と科学は真の対話を始めることができるでありましょう。」と優しく書いています。「一定のエネルギーを入れるならば、(その)無から物質が生まれる」この世界。ビックバンを生み出した莫大なエネルギーは「創造者」の思想なのだと考える時代が到来する予感がします。

 

 もはや「偶然」という言葉に、科学者の探求心をごまかす力はなくなりつつあります。この宇宙は、14の定数によってもとづいています。重力定数、絶対零度、プランク定数・・この宇宙の原子を成り立たせている、原子核の核力を1%でも強くすると水素は生じなかったそうです。電磁力がいまよりほんの少し強かったら、化学反応はあり得ず分子も存在しなかったでしょう。重力が宇宙の形成期にほんの少し弱かったり強かったら、星は存在しないか燃え尽きるかで、いずれにしても生命の存在はなかったのです。宇宙は、生命が現れることを知っていたとしか言いようのない、微妙なバランスの上に成り立っています。「偶然」という文字の上には、知的建造物は一つも建てられないのです。学問の世界から、偶然という言葉が取り外されようとしています。混沌の中に、秩序を見いだす努力がされています。宇宙全体が偶然から生まれる確率がほとんどゼロであるのに、どうして生物が、人類が偶然から発生するといえましょうか。知性なき宇宙など、誰が「ある」といえるのでしょう。

 

 ダーウィニズムは「偶然」を信奉する思想です。三次元物質界の分子のランダム変異と、「優れたものが残る」といった二つの要素に要約されます。誰が「優れているか」判定する権利は、「自然」にあたえられており「自然選択」といわれますが、この自然を物質界のみと考える唯物論では説明がつきません。少なくとも「時間」という要素と「精神」という要素がなければ、時間の前後で優れたものを選ぶ視点は考えられないでしょう。「ヌクレオチドのような化合物がRNA分子の生成に「偶然」到達するには」1015 年かかるといわれます。しかし、これは宇宙の年齢よりも長いのです。分子や細胞一個ですら、偶然の試行錯誤の結果ではなく、まして生物や人類は偶然の産物ではあり得ないのです。進化も、「物質を超えた、形成原理」の探究の時代になってきていることです。

 

 そもそも物質(当初は質点であったが)とその運動をもとめた物理学が、探究の果てに見いだしたものは、「場」、クォークという純粋な観念、美しい抽象の数学法則であったはずです。クォークはもちろん物質ではありません。物質をつきつめたところ非物質の世界が広がっていた。物質的享楽を求めていた人が、その全てを一夜に失い、無常観、そして菩提心へと目覚めたような経験であったでしょうか。そこから科学も精神の領域が始まるのです。いままで確かだと思っていた物質世界が、巨大な精神の知性の場、荘厳な秩序の中にぽっかりと浮かんでいたということが明らかになり、人類の知的探究のあらたな無限の世界が広がっていたのです。科学も、天体の運動や、質点の運動を求めた古典時代、法則への説明のなき量子時代を経て、法則そのものを解明する時代へと向かうようになります。

 

 精神と物質、信仰と知識の分離した時代が終わろうとしています。後者が前者を説明するような唯物論的時代は過ぎ越し、それらのものはもともと別のものではなく、後者は前者に包含されつつ同じものであるという思潮が科学の側から起こりました。この著者のいう「超実在論」も霊的世界と現象世界の融合に他なりません。物質界がビックバンにより始まったという説明を大多数の人類に確実に信仰させた功績は、キリスト教でも仏教でもなく近代科学にあったのでしょう。その科学も物質世界の奥に、過去・現在・未来を超えた主の知性を考えざるを得ない時期に、いったん物質世界の闇を数百年照らしつづけた光が、神の世界に戻る時期にきています。

 

 この本の後半に、フーコーの振り子の話が出ています。地球が自転していることも分からなかった時代、振り子が揺れているその振動面が一日に一回転していることに気がつきました。その答えは、振り子の振動面は一定で地球が自転しているからだ、というものでした。しかし、その一定とは何に対して一定であったのでしょうか.太陽系でしょうか。いや太陽系も運動しています。太陽系の付近の天体?、銀河系・・とたどっていくと、実は宇宙全体の天体の総質量に対して一定であったというのです。目の前の単なる振り子が、宇宙全体の質量を知っていた!?知性の広がりというものは、宇宙全体に張り巡らされているのではないでしょうか。人間が偶然と考えることも、おおいなる縁起によって結ばれていることを思想の中心に含めるときがきたのではないでしょうか。また、この物理学の成果を素直に受けとめると、社会生物学のようなダーウィン論の亜流を中心においている現代の生物学とのギャップを痛烈に感じます。そのようなことを考えさせる一冊でありました。

1999/12