今西錦司生誕100年特別企画  創作:回想風まとめ

 

 「この世界が流転し、混沌化しないで、そこに構造があるということは、つまりこの世界を形成しているいろいろなものの間に一種の平衡が保たれているということを意味するのでなかろうか。生物の身体が示す構造もそういえばやはり一種の平衡現象でなければならぬ。・・すると構造というものは同じ力をもったものがお互いに働き合うことによって生ずる関係である。(生物の世界;1940年)」


 目で見たり手でつかんだりできる生物体、つまり人間が人体によって認識できる生き物の姿は、あくまでも個体だな。これが生き物のすべてと思えば、これを解剖して、行き着く先は遺伝子までいってしまえば、生物はあるいは生命の探究はおわりと思っている人がほとんどだ。さすがに遺伝子を構成する炭素やリン原子までを生命の本質という人はいないようだが、ではなぜ還元主義者はここで探究を止めるのかこれを説明する人はおるのだろうか。まぁそれはいいとして、しかし磁針がなぜきちっと南北を向くかを、磁針を切り分けて調べていてはらちがあかん。それはこの大地、地球丸ごとと関係しているからであって、問題は磁針のみにあるのではない。

 生命もそうなんやね。個体ばかり追いかけては、生物個体の身体のことしかわからない。種社会ということを言ってきたが、種社会という言葉は種を実存的にいってみたのだけれど、時間の中で展開する要素すべてを盛り込みたかった。すると「生物の世界」にもどって「種」といってもよいかもしらん。種が進化する主体であり、種が個体を定常に保ち、変化するときには一斉に変わる単位であったわけだ。

 なぜこうしたことを考えるようになったかといえば、「もと一つ」という思想があったからやね。これは、東洋哲学でもプロティノスやシェリングなんかのねらいと同じだが、もと一つのものから分かれてきたんやから、無理に争う必要なんて考えることはないということだ。
 これは人間の肉体を考えたらようわかる。もと一つの卵細胞、それが二つ四つと分裂して何兆もの細胞になってみたら人間になっているというわけやな。しかし、その成長の中で、肺が心臓の細胞と争ってその位置を占めるようになったと考えるだろうか。胃の細胞が、小腸の細胞と細胞数を競ってああなっているのだろうか。そう考える人がいないわけは、もちろん人体の器官が恒常性をたもって個体を支えているように見えることが自明であるからと、こうやってものを考える我々が個体であることに由来するのである。もし考える主体が細胞であったなら、あるいは細胞の生存競争なんて理論をたてよるものも出てくるかもしらん。しかしそんな細胞はガン細胞くらいなものやな。

 生物の世界も、本当のところわからないが、最初は一種だけであったとしよう。しかし、エネルギーはね、太陽の光やら地球の栄養分やら、あるいは重力のエネルギーだって常に与えられているんだから、なにか既成の循環を飛び越える奴がおってもいい。その新しい種と最初の種は、兄弟であって別に棲みわけたらええんや。棲みわけが起こるところに新しい種ができるのと相即や。だから生態系は時間につれ複雑化してゆくが、無理に争いを原理にすることはない。もっともアダムとイヴの子カインが弟アベルを殺すような歴史書をもつ文化では、競争は前提になってしまうのかもしれない。私は生物がもと一つから分かれたことをもって、生物進化の根底の調和の原理もうったえたのだ。

 話はすこしかわるが、カール・セーガンなどSF作家の何人かはUFOなどの飛行物体は否定していたらしいが、宇宙人の存在は確信していたという話を聞いた。これももと一つ理論である。宇宙が一つのビッグバンで始まり、時間・空間や原子や重力定数などの物理法則は広大な宇宙で一様普遍に同じである以上、「私たちがいる=彼らがいる」ということは極めて強い信頼度をもっている。
 物理法則であっても、力、場、粒子、原子、分子、星雲、星であってももと一つのものから、時間軸上に宇宙が展開して進化したのであるならば、生物の出現もそうなのである。地球上に限っても、一つの火の玉原始地球が冷えてゆく過程で土くれにならずに、今見るような姿になっていることは、地球の進化なのである。

 生物に話をもどすと、ではそうした生物を切り離された個体だけのものにしないで、原初のつながりを忘れさせない原理はどこにあるんだ、という話になる。こうした時空を越えた生命一般というものがどこにあるか、それを生物は認めつつ生きておるのか、という話になると、それはもうわからん。だいたい生物個体が何を認識して生きておるかということは、ユクスキュルというカント哲学も講義できる男も構築しておったが、やはり実験によって少しづつ類推してゆく以外に方法がない。しかし、こうした考えによって、人間が生きている時空間に無造作に生物個体を置いて闘争させることは免れる。生物はその生物が身体を通して認識可能な世界にしかすむことはできず、したがって人間には同じ生活圏にいる生物どうしに見えても、認識の範囲が重ならなければ、いくらでも生物は共存できる。これはニッチ(生態学的地位)を生物の側から覗いてみた光景だ。

 それで、まぁ生物はもと一つのものから分かれたということはわかるのかということだが、それは生物同士はわからなくてもよろしい。それがわかるのは人間だけである。種を構成する個体は、もと同じ種から分離したものであるから、その種を構成する個体は、どれも種からみればどれも同じである。同じという前提がなければ、ダーウィン論の個体差ということもない。まず、種個体の規格がどれも同じということが、種と個体を考える際に大切なことである。どの個体の器官も、細胞も、遺伝子も、もと同じものから分かれたのであるから、種を成り立たせている大切なパーツは同じである。同じであるからある個体が変化する時機は、同じ環境圧を受けている他の個体も同じく変化する時機なのである。

 ではその変化は、何を原因にしているかといえば、これは考えられるところもう太陽としかいいようがない。光、電磁場、あるいは深海では地熱でも、化学変化や先程述べたように重力なども含め、流入するエネルギーを考えねばならん。エントロピーを捨てつつ非平衡の循環を持つ系で、生態系のように複雑に要素(種)が絡み合っている場合、非線形つまり断続的な変化を系自体にもたらすことがわかっている。種は、生態系の中でその位置を保ちつつポテンシャルを高めつつ、一気に変わるときが来たら変わるんや。水だって冷やしてゆけばずっと冷たい水ができるというもんではない、一気に氷になる。変わるときというのは、歴史の問題やね。進化は歴史に書かれた遺跡やね。水だってあの温度で凍るということは、過去この宇宙の電磁力や分子間力が一定の力に決まったからああなっているのであって、科学の問題ではなく歴史の問題と観ることもできるだろう。これらはまだ現代の生物学の太刀打ちできる相手やない。しかし、流入するエネルギーによる自律的進化もね、無目的的にはたらいてその試作品の中から選択によって、今ある生物がいるんだという考えになってしまったら、何もかわらん。自律の「自」とは何ぞや、盲目的自然の「自」か、己といういみを含む「自」か。エネルギーの流転にただ流されている自然か、エネルギーを統御している自然か。

 「創造性をもった主体」が、生物の側になくてはならん。もし生物学が今の科学の延長で、遺伝子治療や生物工学などで役に立つものしか科学ではないという態度で満足しているならば、それでもよろしい。しかし、自然学では、生物に「創造性をもった主体」を人間が積極的に与えてゆかなくてはならない。そうした眼で見てあげてゆかなくてはならない。これも過渡期の思想やが、生物を機械と見るなら機械として見える一面も許容しよう、しかし主体性は見出してゆくぞ。そうした見方は人間がしてゆくんや。それが人間の学問や。生物哲学はフィヒテの時代まで後退してるかしらんぞ。それでなにも見えなければ、今西自然学は妄想になってしまうし、生物の主体性が見えてくれば、今度は次の時代の科学の対象となってゆくはずや。

 その主体は、種であったし、さらにいえば生命一般であったと信じている。そうした有機体を考えているところは、ドイツの森の空気を吸い込んだシェリングと、日本の山々に育った今西錦司は近いものを見てたと違うか。あるいはラマルクの本意もそうかもしれん。生物に内的感官をみておる。しかし、エーテルを観測機器で見ようとして見つからなかったように、生物精気などを個体に探そうとして失敗したのが、ロマン主義や生気論の敗北ではなかったかな。こうしたものは、人間が観るのでなくてはならん。ユングのいう精神世界に個体を超えるものをみたのは正解やった。目で見てもみえず、機器をつかっても観測されないようなものを、生命の中に観てゆく、というのは道なき山を登ることよりもあるいは困難で、勇ましいことかもしらん。

 タンポポの綿毛一本であってさえあの不思議さを持っているのに、徐々に偶然の残物が勝ち残ってできたと納得できる人は、そんな探検なんか出かけようという気概はなくアカデミックの塔にこもっているんや。今、インターネットの世界でも、こうした巨きなマンモスに立ち向かっているアリがわんさといる。その巨大な化け物はもう背骨が溶けておる、もう十数年やな。
 人間自らが、個人的自我の生存競争のみの価値観から目覚めて、進歩と調和の融合した世界観を見出したときに、生物はとっくにそうした世界に憩っていたことに気づいてほしいと願うのみである。