力学的世界観と熱、生物学 導入
 

 ニュートン力学の威光によって、世の中の現象が、質量と質点同士にはたらく力によって説明づけられるようになった。絶対空間にたいする加速度と質量の関係を定義したことにより、仕事をおこなう力を理解し、応用することが可能になった。共通点のないと思われていた、リンゴが落ちることと月の運動が、同じ式で説明された。

 それまでにデカルトの延長という概念が解析幾何学によって3次元空間として確立され、真円に楕円以上の神秘的意味を加えていたような価値観を払拭した功績があげられると思います。

 科学技術という表現に対し、「科学と技術はまったく別のものだ」という意見があるがどうであろうか。
 科学は理論の探究という一面を持つが、全ての真理を説明するものではない。かならず仕事として物質世界に働きかける実証、なにかものの性質や位置を変化させる実験的要素を必ず持つ。科学に基礎と応用が含まれるのは、科学の根底にある精神が最初より両方を兼ね備えたものであるからと思う。
 基礎科学と応用科学は本来一体のものであるし、技術はその両者を押し進めてゆくものである。ガリレオもニュートンも技術者の一面もあったし、エジソンは科学者でもあった。
 しかし応用科学、応用技術が忽然と発生することはなく、かならず理論としてか技術者の心の中に、基礎科学にあたるものが先立っている。大乗仏教は小乗仏教よりもあとからあらわれてきたにせよ、仏教精神に合致しているように、基礎科学と応用科学、技術も同じところから出てきている。技術をどのように用いるかという倫理的統御の方法は現在の科学にもとめても無い物ねだりというものだ。まだこの星の科学は、物質に近いところのものしか解明しようとしていない。

 ここで、何を述べたかったかというと、科学には実証精神が働いているということだ。科学は実験によって反復され実証されたものを優先的に受け入れているので、理論が完全でなくとも広い範囲の現象が説明されることによって、その理論が受容され信用され、真理とされることになっている。

 熱の説明であっても、当時の実証主義者たちは原子や分子など人間に認識されないものは一切認めず、分子の運動が熱であるという説明を拒否した。しかし、分子運動の理論で様々な現象が説明されることによって、科学理論としての地位を高めてきた。分子間に働く運動を、ニュートン力学を適用させて説明することに、結局のところ成功したのだ。
 いまでは熱は、分子や原子が振動して発生するものとして満足されている。しかしそれが真理として呑み込まれている支えは、ニュートン力学の正当性と、多くの気体・液体・個体の現象を説明しているからにすぎない。熱機関によって、産業が発展したその真実性を信じているに過ぎない。
 
 えっ、現象を正しく説明していれば、それで真理ではないのか、と反論が来そうだ。
 それには半分以上うなづいておきたい。しかし、残りの保留しておきたい理由は、物理学が熱と温度を、最初から別のものと理解するように要請しているところから発生する問題なのである。

 この分離こそ、熱力学の最大の成功であり、それ以降の科学に大きな影響を与えた分岐点になるのです。

 −−熱が分子の運動に帰着せられるべきことがどんなに疑うところなく証明されているにしても、この種の運動の基礎法則に対するわれわれの立場は、ニュートン以前である。by アインシュタイン−−
 

 電磁気学に目を向ければ、やはり静電気、静止磁場の説明は、ニュートン物理学に依拠して説明されてきました。クーロンの法則は、距離によって力が関連して変化する万有引力の法則をモデルにしてそして成功しています。

 ここまでが力学的世界観で成功をおさめた歴史の折り返し地点にあたるでしょうか。

 重力においては引力のみであったのが、電力、磁力は、陰と陽の双極性を持つところですこし違う印象をとどめている感じはありました。

 ところが、電磁気学に新しい力と、時間が関係してゆきます。運動する電荷には、運動方向と垂直に力が働くことがわかりました。こうしたことは今までの力学には出てこないのですが、実際に仕事をおこなう力をもっていました。また電荷の速度によって磁力が強くなるという性質も新たな性質です。さらに、これらの力がもつ近接作用によって絶対時間の観念がくみなおされ、電磁波の速度が絶対であり、空間や時間は、電磁波の速度の一定を守るために変更が加えられるようになりました。これは特殊相対性理論への道のりを示してます。

 この途中では、エーテルといった認識されるべき実体が考えられ、これが電磁波を伝える媒体とされるのですが、エーテルによせられた様々な実体性がはぎ取られてゆき、結果、四次元時空間という新たな絶対概念が残りました。時空間が電磁波を伝える場として、物理的実体をもった存在として扱われるようになったのです。場のエネルギーから、質量とは何かということが考えられたのです。
 現代物理学によって、世界の説明は数学的言語による美しい記述によってなされ、プラトンのイデアに近い世界観を呈示することになりました(ハイゼンベルク)。

 ここで取り残された熱についてもう一度考えてみましょう。相対性理論と量子論と熱の関連性はどうなっているのでしょうか。力学的世界観と統計によって、もう説明しつくされていると思われているのでしょう。
 熱、熱量の概念の起源には、人間の触覚による温度の受容があったことは否定できないと思います。
 冷たい、ぬるい、暖かい、熱いなど表現をともなって温度があらわされますが、その基準は人によって異なるため、便宜的に水の氷点と沸点を基準に温度の物差しがつくられました。
 この冷たい、暖かいという表現と熱とは別のものです。熱は数字によって表現されますが、別に価値を含んだものではありません。熱いと冷たいは人間には反意語ですが、熱は全くそういった表現から分離され、分子の運動エネルギーの多寡にしかすぎません。
 ここちよい温もりを、数学的言語で表現することはできないのです。
 
 同じことは、赤紫と赤が、色覚には近い色に見えながら、可視光線の波長としては離れており、その間の関連性については何も言えないことでも言えると思います。

 和音の醸し出す精妙な調べも、数学的に美しく説明がつけられることと、私たちの聴覚における快感が、何故一致するのかは分かりません。

 さて、長く書き連ねてきたことから、何が言いたいかというと、私たちが受け取る世界の全ての主観客観をふくめた認識のうち、科学で説明をするよう試みている世界はごく一部であるということなのです。
 共通のものさしをもって理解し、この現象世界をより素晴らしく創造する力を得るために、科学が必要とされたのです。共通の物差しは、絶対空間、絶対時間、力学の法則、万有引力であったり、それらの物差しも、より世界観を広げるために少しづつ変化してきたものであるのです。

 少し前の多くの日本人であれば、逆に、この世界全てが科学によって説明つくされ、科学法則によって因果づけられた世界と思っていたと思います。
 しかし、科学はなぜ宇宙があるのか、なぜ慣性の法則があるのか、なぜある波長の光線が赤色に見えるのかわかりません。科学が解き明かす世界は、偉大な科学者が真理を突き詰めていった精神力の中に浮かんでいる世界にほかなりません。科学によって未知な世界は、すぐそこ、ここらあたりに無限に広がっています。
 
 それを考えると、何もわからなかった拡がりの世界から、人類を宇宙へ飛ばし、クェーサーや素粒子の存在を人類にもたらした科学という力は本当に素晴らしいものと思います。コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、デカルト、ニュートン、ファラデー、マックスウェル、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルク・・・・こうした方々の精神とは、奇跡に近い輝きをはなっているように思います。
 
 科学の威力は、科学が保証する範疇でしか働きません。人工衛星を打ち上げ軌道を正確に統御することはできても、自分や他人の思いや行動を束縛する力にはなりません。
 色彩の美や冬の日溜まりのぬくもりなどが科学の対象にならず、人間精神の自由性がとらえる対象は科学の対象にならないことと等しく、進化における適応も、科学の対象にはなり得ないのです。
 

 有名なだまし絵ですが、元図は物理的に同じものであっても、見る人の心象構図によって異なる情報を受け取ります。精神から物理的世界に概念を持ち出しておいて、なぜある生物が適応しているのかという問いは、壁にボールをぶつけておいて、何故へこんでいるのか?と問うようなものです。
 

 適応は、人間精神の合理性と自然の様態が合致した時に生じる驚きにほかならず、それを解き明かす手段は現代生物学は持っていないのです。
 それはカントの「判断力批判」を「純粋理性批判」で説明しようとするくらいあり得ないことをしようとしていることになります。

 熱力学にとっても力学的世界観では手にあまる鬼子がありました。エントロピーと時間の問題、熱平衡状態における秩序の形成、創発といった問題がそれです。
 これについては進化とも非常に関連のあるところであるので、また別に論じてみたいと思います。
 熱の原理が解明されることによって、進化や生物の理解がはじめて進むものと思います。

 本当の科学者とは科学が適応される範囲とそれ以外の境界を知っている人と思います。世界の全ての現象を現代科学の考え方によって説明できると思っている人がいたら、そういった人こそ聖書を完全として科学者を迫害したような精神傾向の人であるのです。