創造的破壊・体系的廃棄
 

 経営学者のP.F.ドラッカーは体系的廃棄と、経済学者のシュンペーターは創造的破壊という言葉で述べておりますが、組織の発展にはイノベーションが不可欠です。
 端的には「脱皮できない蛇は死ぬ」といわれます。脱皮しおえた蛇はまたその外皮が支えられる体型までは急速に成長します。組織体系が発展の要素となり、企業も最速な判断で状況に対応できる組織創りを目指し成長しますが、その体系がいつか限界となって発展を阻害することになります。そして以前成功した方法のみにこだわりイノベーションをおこせず、衰退する企業もあります。

 時代はすべて流動的なものであり、その変化を敏感に察知して自己を変えてゆかなくてはならないのです。

 平家は公家化と荘園にこだわり、土地私有化のうねりを知悉した源頼朝のまえに亡びました。
 鎌倉時代の御恩と奉公の関係も、元寇や宋学思想により崩されてゆきます。
 室町時代の守護大名も、今川氏のように領民をいたわる大名へと変化してゆかなければ衰退してゆきました(その今川氏も戦国大名の前に滅びましたが)。

 歴史では、その時代を築いた栄光が、また滅びの原因ともなっています。そのために人間の組織を長く存続させてゆくには、捨てなくてはならないものがあるのです。 

 個体の繁栄法則でもある種も、種を抱え多様化を目指す生態系も、イノベーションを必要としています。生物は、その生物の認識可能な世界で最大の繁殖効率を営むようニッチを広げ開拓します。新たなニッチ獲得に成功した種は、そのニッチの範囲内が利用可能な時空間となりますが、そのニッチが限界となります。

 最大のインパクトを与える外的な変革時期は、いん石の衝突などを含む天変地異になるかも知れません。海面の低下や土地の隆起などにより孤島が大陸と地続きになるなどで、大型生物の流入が始まることもあり得ます。

 進化過程で、ある種が獲得した生態によって、変化をせざるを得ない状態になることもあるでしょう。
 その種自体がもつ構造的ボトルネックを克服したときも飛躍的発展があるでしょう。アブラナ科植物が含硫化合物(辛みの成分)を獲得したときに、繁殖的な成功を得たでしょうし、モンシロチョウやコナガなど、アブラナ科植物のみを食草とする昆虫は、アブラナ科の出現と同時に変化したのでなければ、やはりどこかでイノベーションを経験したのだと思います。

 こうした変動に、偶然の変化と自然の淘汰を待つことはありません。進化のスピードは一定で、徐々に変化しているというダーウィン自体の考えは、膨大な化石の反証によって否定され、進化がおこる時期は短く変化は一気呵成におこなわれることが示されました。

 中立説をダーウィニズムに組み込もうとする人は、形態には変化のおきない潜伏期のような時期に遺伝的な変化は進行し、環境が大きく変化した時にその封印が解かれるようなことをいう人がいます。自然選択が必要であったはずのダーウィニズムですが、もうこうなると「鵺」やスフィンクスだって作り出せます。

 進化論自体も西洋世界に「種も変容する」という啓蒙的使命を果たしたのであるから、突然変異・自然選択という枠を廃棄して、本当の進化の仕組みを構築すべき時期に来ているのだ。



★自然の変化は年々同じ過程を繰り返すのみの静態的な時代がほとんどであるということは,私たちの寿命の範囲で知ることの出来る真実の自然の姿である.しかし,また大きな時間の流れを見れば,ダイナミックな種の創造と絶滅を繰り返してきた動態的過程を経てきたのも事実である.

 単に春がきたら草が茂り秋になり葉を落としてゆく,あるいは雨期がきて虫が這いずり乾期にその多くの虫がどこへともなく消えてしまう歴史を叙述するのみが,進化ではない.こうした単純な循環は,自然が見せるほとんどの姿ではあるが,この過程のみではこれだけ多くの種が地球に繁栄することはなかった.
 こうした単純再生産の状況・時期は経済にもある.しかし個人経営者が自己や少人数の家計を成り立たせるためだけに経済活動を行っているだけでは,資本主義全体は成り立ってゆかないのである.少数の企業者の勇気ある「新結合:イノベーション」が必要なのである.「(新結合は)少数の経済主体にのみ備わっている知力と精力を必要とする.こうした新結合を遂行することにこそ,企業者の真の機能がある.

「自然は飛躍せず」――これはライエル-ダーウィンの明言した言葉であるが,経済学者マーシャルも引用した言葉でもある.経済学と進化論が絡み合っていることは,もとダーウィンやウォーレスが自然選択説を打ち立てたてるにあたり,経済学者マルサスの学説を援用したことを源流とするが,マーシャルも逆に,進化論から予想された漸進的な系統樹を経済の進展に探した.これらに対して「自然は飛躍する」のような,断続的な,非線形の進化を生物に見たのがベルクソンであり,経済に見たのがシュンペーターであった.我々は,先人の創られた思考枠を通して物事をみることが楽なのである.というよりも,そうやって歴史が進んできており,時々思考枠と現実態とに矛盾を発見した改革者によって,より真実の見方が普遍化される(あるいは悲しいことに後退する)のである.

 経済においてあるいは芸術の世界においても,漸進的な変化によっては決して到達できない進展が起こるがごとく,生物においても非連続的な変化が時間軸上にも,同時的な種間にも認められることは誰も否定できない事実である.経済や自然の進展も,漸進的にも進みうる.しかしそれは外的要因による受動的反応である.しかし劇的な変化には,創造性と,それを発揮する企業家という主体者が不可欠なのである.
 
 ここに今西錦司が進化の導き手として外的環境ではなく種の主体性においたのも頷ける.この主体性とは生物種がもともと持っているものか,人間が与えてゆくものなのか,と言う問題は自然哲学の解明する問題であるが,主体性をあるものとして見てゆくことが次の時代の生物学を開く鍵となる.

 私たちの多くが経済活動の中で生かされていることは,一握りの企業者の勇気ある決断の恩恵である.その他大勢は利益は生み出しているが,価値を生み出していない.同様に生物個体の個体の存続やその個体の遺伝子を存続させる営みは,ほとんど大進化とは関係のないものである.もし個体の存続が生物の目的であれば性は不必要なものであり,遺伝子の存続が目的であれば,最初の1種のみが永劫回帰している世界で十分だ.そうではなく種の選択する方針が,その種個体を養う本質なのである.進化の歴史とは,こうした種のとった勇気ある方針の栄光と,過去の方針にあぐらをかき企業家ではなく経営管理者になってしまった個体群の没落のドラマである.

 経済学の発展と相俟って,新しい進化論は必ずシュンペーターやドラッカーの言うイノベーションを思考枠に入れ生物世界を眺めた人から巻き起こるであろう.