コスモス・フレーバー
 

 あの世があって、人間は転生輪廻しているなら、動物はどうなんだろう。
 動物や植物にも魂があるなら、 あの世で何をしているんだろう。
 子供の頃そんなことを考えていたから、こんなサイトをつくりました。

 今の生物学では同じ種の雄と雌の間でも生存戦略に奮闘している理論がエレガントな話になっています。

 人間とは何か、この星の歴史がどんなに恩寵に満ちたものか知らない人たちによって、生き物達も勝手に人間のエゴを背負わされたロボットに堕してしまいました。そればかりか、自分たち人間までもロボットであると暗示をかけて、その世界の中で生き延びようとする系を構築しています。

 人間をはじめ、すべての生き物、万物は根本仏、根本神の念いによってできています。
 全ての生き物がつながって、人間の生命を運んでいるというのに、
 その愛に気づかずに、間違った思想を奉じている人は、生き物の機械と偶然の部分しか見えなくなってしまった。
 
 宇宙の奥から、いつも優しい風が吹いているというのに、宇宙の法則を知らないために、多くの人は苦労しているように見えます。
 考えるということは、その考える内容と同じ波長を持ったものを受信するということに似ています。宇宙の全ての思いの波の中に、自分が考えたい内容に対してアンテナを立てることです。

 だから、こよなく優しくありたいと思えば、やさしい自然の詩や宇宙の祈りの優しさと共にあります。
 自然を愛し、美しさを発見することを主題とすれば、そうした風景を見ることができるでしょう。
 人間が嫌いな反動でのみ動物や植物を愛すれば、自然の中の、人間を恨み悲しむ精霊の声を聞いてしまうでしょう。
 静かで、おだやかな気持ちでいれば、しずかな思いはあなたのものです。
 ある人には陰鬱にみえる雪の雲も、しあわせな心の発見者にとっては、神の衣服の色をそこにみるかもしれません。灰色一色に塗ってしまう空でも、人生のいろんな営みを感じる余裕があれば、そこに水色や桃色や、黄緑を見つけられるかも知れません。
 
 中世に時計がつくられれば時計に、より精度の高い熱機関ができればそうした機械に、コンピュータができればコンピュータに、力学が発達すれば力学に、電磁気が勃興すれば電磁気に、化学反応が精解されれば化学の言葉で、非線形反応が学問化されればそうしたものとして、生命はさまざまなその時代時代の先端のモデルによって例えられてきました。しかしそれらはまだ生命理解に知性の届かない人類に、知的安定をあたえようと諸先輩方がこしらえた松葉杖にしかすぎません。

 補助輪はいつか勇気を持ってはずさなくてはなりません。そうした支えなくして、生命そのものへと目を向けてゆかなくてはなりません。もう細胞とか、DNAとか、身体のみを構成する物質のみに、しがみつくのはどうでしょうか。

 生命は、万物に与えられた恵みです。人間は、まず全ての人に各自それぞれに与えられた、尊き生命を見つめなくてはなりません。自らの生命、主よりすべての祝福をうけて与えられた、宇宙に唯一のあなたの生命、それをまず探究しなくてはなりません。
 そのためには、相対的なものから心を解き放つことです。学歴、年収、人間関係のしがらみ、他人の評価などから、あるいは自分はこれだけ修行した、これだけ努力したなどという「自分」から、心を解放することです。そして、絶対とか、永遠というものに自らを近づけてゆくのです。

 永遠の生命という大いなる安心感に包まれて、自分の地上生命を見直せば、今までつかんでいたものの哀しさがみえてきます。そして、自分の永遠の生命の一部が、いま地上に短い期間旅立っていることがわかります。その時に、あぁこの生命が透明になって、風のように地上を吹き抜け、またかえってくればいいのだな。自分がまだ生まれる以前の世界より、自分が駆け抜けていったあとの世界が、少しでも素晴らしい世界なればいいな。そして、自分が生きてきた中で、困らせてしまった人たちにどうしたらいいのだろうか。そう反省できたなら、永遠の生命をくださる主へ、子供のように「ごめんなさい」とつい口にでるでしょう。親鸞さんなら「南無阿弥陀仏」といったと思います。主はにこにこして全てを和解の道へいざなってくれるでしょう。

 21世紀、私たちは数多くの仲間と共に、この地球に生まれ、生きにくい時代に暮らしているのかも知れません。石油や原子力などから多くのエネルギーをとりだし、森を裂いて鉱石をとり、そのエネルギーをどのように幸福に用いていいのかわからず、ただ消費と物欲を増長させて、その渦の中で多くの人が悲しんでいます。なぜ、賢いはずの人間が、こんなに多くの仲間と集っているのに、心を閉ざして争っているんだろう。それはただ、私たちの人生の目的と、それを支えるエネルギーの行き先を見失っているからに他なりません。

 仏教に、自分の腕よりずっと長い箸をもった餓鬼地獄の説話があります。地獄の人は、箸でご飯を食べなくてはいけないという常識に縛られているため、美味しそうなごちそうをまえに、箸で何度も料理をつかむのですが自分の口へ運ぶことができず、飢えて苦しんでいます。ひとりこの中に自分の飢餓をのりこえて、他人の口に料理を与えることができたなら、そしてそうした与える人になろうと決意するたった一人が、すべてのひとであったなら、地獄は天国になります。

 人類がひしめき合っている地球で、みんなが欲しい、欲しいといっていれば地獄になります。しかし、誰かに与えようと思っている人で満ちあふれたなら、素晴らしい世界となります。そして、各自がこれを与えようというものが、他の人にとってはありがたくないものであることもあるので、まず、目に見えないだけで、しかし全ての人を愛している主へ人類が感謝を捧げてゆこうとしたときに、世界の善の循環はしずかに動き出すのです。この主への愛が信仰です。そして主へ全人類の幸福を願って手を合わせる姿、自らがどんな環境にあろうとも一条の光を主へ立ちのぼらせる心が、祈りではないかと思います。
 宗教とは、小さな自己の欲を実現化するおまじないでも、争いの道具でも、金を積んで迷っている霊を追い払って自分の苦しみを晴らすようなものではありません。もっと本当に大切なものです。

 もう21世紀をいきる私たちは、他の国の領土や権益や、資源を無条件に欲しいとは思いません。
 この地球が、人類全てにとって素晴らしい星であるように、美しい思い出をたくさんつくれる星であるように祈るのみです。この時代に生きて、人類にやっと明かされた人類が本当に一つとして認めあうための教えに、全ての人が気づくことを祈るのみです。

 私たちは長い長い長い旅を続けてきました。ときどき、釈尊やイエス様のような方々が照らした灯を、自らのともしびとして歩いてきました。どうかそのぬくもりの最大の愛を、もう一度今という時代に感じてください。

 こうした与えあう気持ちがわかれば、生き物達の世界もわかると思います。松下幸之助さんの水道哲学というのを聞いたことがありますが、水道の水のように電化製品も安く提供したいという思いと努力によって、ナショナルの繁栄を築いたということです。与えたいという思いが循環し、自社を発展させることが日本の発展ともなり、私たちの生活を向上させたのみならず、ライバル会社も成長させ、多くの家電メーカーを育てることになったのだと思います。人を騙して金をため込んだような会社は、社会全体が伸びていたときにはぶら下がっていたとしても、今の時代にはもう少なくなってきていることでしょう。

 生物の世界も、生存競争で種や個体レベルで闘争しているように見ることは人間の自由です。しかし、それで生物の世界が成立してやなんかちっともないのです。自らの身体を与えようとしている生き物が、多くの他の生き物を養っているのです。

 生き物達も、この地球という星に共存し、お互い助け合って生命を未来に運んでいるのです。こうしたことは自分が生かされていることに気づいたときにわかるのです。こうした体験を持つ方はこれから増えてゆくと思います。こうした感性、悟性のはなしは、経験していない人にとって知性で伝達できない狭いコミュニティの馬鹿話として一笑されるのですが、ようは経験する人が増えればいいのです。

 主を愛し、本当の自分を愛し、他人を愛せたなら、人類が最大の愛に気づくまで私たちの生命を支えてくれた自然環境をも自然に愛せます。いとおしく感じます。
 一人一人の生命は、本当に本当に多くの愛によって支えられてつながっています。それを実感するためには、やはり自分の心も同じく愛の心とならなくてはなりません。この時代を素晴らしいものにしようと、情熱に満ち無我なる思いとなったとき明治時代の志士達の思いに触れることができるでしょう。こうした自分以上のなにかに捧げようという気持ちになったとき、それを支える精神がとなりにいることに気がつき、これもいままで見守ってきた愛と気づくことがあるのです。それだけではなく、自分の人生途上で離れたり敵対したり亡くなった人の中にも、愛を発見することができます。

 そうした自己を支える愛に気づいて、報恩の人生を歩もうと決意するあなたが、この地球の宝石でもあるし、そうしたあなたが全ての人であったなら、この星は、ダイアモンドのような輝きで、燦然とその光を宇宙に放ち続けることになると思います。